お疲れ様です!とーやです!
皆さんが昼夜を問わず日々考えていること。それは「結局他人の評価なんてアテにならないのでは?」ということですよね(適当)?最新のAI技術がどうとか、ワールドカップの結果がどうだとか以上に周りの目のほうが気になるものです。
バトルのワンムーブ60秒。コンテストのほんの数分。正直に言って、あれで人のダンスに「正しい評価」を下すなんて、土台無理だと思っています。何年もかけて染みついた体の癖も、その日のコンディションも、なんでそう踊るのかという理由も、あのような短さで測りきれるわけがないのです。順位をつける側だって、本当はわかっているはずなんです。
なのに、評価は下ります。勝ち負けはつくし、「あいつは上手い」「こいつはまだ」という空気も、しっかりできあがる。短い時間で正しく測れないはずなのに、評価そのものは、ちゃんとそこに立っている。
じゃあ、その評価って、いったい何で決まっているんでしょうか。その答えは、「評価は集団によって作られる」ということです。
ずっと引っかかっていたこの問いを、今日は最後まで掘ってみます。先に言っておくと、たどり着いた答えは、思っていたより少しだけ、救いのある場所でした。
同じ動きなのに、評価が割れる
正直な話から始めます。私はロックダンスが軸なんですが、同じ自分の踊りでも、出る場所によって評価がまるで変わるんです。ロックの畑ではそこまで沸かない動きが、毛色の違うバトル、たとえばA-POPのバトルでは、なぜか良く映る。動きは、ほとんど変えていないのに、です。正直に打ち明けると、私はアニメやゲームに触れてはいるものの、絵に描いたようなオタクというわけでもなく(自認)、音楽の知識や背景は人より乏しい方です。だから、ロックで培った技術をA-POP寄りに寄せて踊る、なんてことは、ほとんど意識してきませんでした。なのに、沸く。自分でも理屈に合わないんです。
こう言うと、すぐ答えが返ってきそうです。「そりゃA-POPの場はレベルが低いから、相対的に上手く見えただけでしょ」。私も最初はそう考えました。周りのレベルが下がれば、自分が浮く。ただの相対評価だろう、と。
でも、違うんです。少なくとも、それだけじゃない場面の方がずっと多い。A-POPのバトルにも、世界大会クラスの実力者や、エントリー表に名前があるだけで周りが気後れするような格上が、たまに出てきます。ところが、その人たちがどこかでころっと負ける。そのまま危なげなく勝ち上がって優勝、という姿を、私はほとんど見たことがないんです。鍵はレベルの高い低いじゃありません。その場が「何を良しとするか」という物差しそのものが、別物だということです。ロックの場なら、技の精度や本場のグルーヴが細かく問われる。でもA-POPの場では、その曲をどう踊るのが正解という共通の物差しが、まだ薄い。だから代わりに、技術の確かさや真新しさ、個性そのものが物差しになる。ロックで積んだ私の動きは、その上では「見慣れない、個性的」と映るんです。
勘違いしたくないのは、「A-POPはゆるい、ロックは厳しい」なんて単純な仕分けじゃないこと。格上揃いのA-POPバトルでも、同じことは起きます。同じ場でも、ジャッジや客が代われば物差しは揺れる。物差しは、場ごとに、見る人ごとに、ゆらゆら動いています。
だとすると、結論はひとつです。評価は、動きの出来そのものにも、周りとの相対だけにも、宿りきっていません。見る側が何を信じて、足りないところをどう補って見るかで評価が割れるのです。さっきの「A-POPはレベルが低いから」だって、よく見れば、見る側が“本場のうまさ”を物差しに選んでいる、一つのパターンでしかありません。
一万円札を思い浮かべてください。あれ、よく見ればただの紙きれです。価値は、紙そのものには入っていません。みんなが「一万円分の値打ちがある」と信じているから、値がつく。信じる人が消えた瞬間、ただの紙に戻ります。
じゃあ、なんでみんな揃って信じられるのか。これ、税金という仕組みのおかげなんです。国が「税金は、あの渋沢のおっちゃんが描かれた紙切れ何枚かで払ってね」って、私たちと約束を交わしている。だからこそ私たちは、あの紙にはちゃんと値打ちがあるものと信じて、真剣にかき集めなきゃいけなくなる。価値の出どころは、紙のデザインじゃなくて、「これで払ってね」っていう国との約束の方なんですね。
面白いのは、その約束、海を渡るとまるっと別物になること。アメリカに行けば、渋沢のおっちゃんを信じてる人は日本よりずっと少ない。向こうには向こうで、また別のリンカーンのおっちゃんが描かれた札を持ってきてね、っていう約束がある。同じ「お金」でも、何を信頼の土台にするかは、住む環境しだいでごろっと入れ替わるんです。
踊りの評価も、たぶん同じです。動きという紙きれに価値が貼り付いているわけじゃない。見る側が差し出す信頼の方に、評価は宿っています。
だとすると、面白いことになります。動きを一ミリも変えなくても、見る側の信頼さえ変われば、評価は化けます。
実力はそのまま、評価だけ上がった話
さっきの話、私自身が一番とまどった側です。ロックダンスを長くやってきて、自分の踊りはこんなものだ、と良くも悪くも分かっているつもりでした。ところが、畑違いのA-POPのバトルに呼ばれて出てみると、ロックの場では返ってこなかった反応が、返ってくるんです。「動きが速い」「うまい」と、まるで牛丼屋みたいな評価をいただくことが多いのです。
白状すると、このとき私が変えたものは、何ひとつありません。練習量も、踊りの中身も、いつものまま。新しい技を仕込んだわけでも、急に上手くなったわけでもない。自分では「いつもの自分」を、ただ場所を変えて出しただけ。変わったのは、私じゃなくて、受け取られ方でした。
なんで沸くのか、最初は分かりませんでした。今ならわかります。あの場の物差しは、技の精度より私の存在という「真新しさ」の側に寄っていた。だからロックの動きは、「欠点」としてではなく「個性」として読まれたんです。この、見慣れないものを“値打ち”として読む構えこそが、私の言う信頼です。動きは紙きれのまま。増えたのは、見る側が差し出してくれる信頼の量だけでした。
さっき話した一万円札と、同じ構造です。見る側が「この動きには値打ちがある」と信じているあいだだけ、同じ動きに値段がつく。信頼の方が、評価という値段を立たせているんです。
だから、動きを一ミリも変えなくても、見る側の信頼さえ積まれれば、評価は化けます。上手さは、信じてもらえて初めて値がつくんです。
逆に、本場のロックバトルでは、牛丼よりも手の込んだローストビーフ丼の方が好まれるようで、こちらはなかなか結果がついてきません。それでも、たまに無性に牛丼が食べたくなる人がいるように、私の動きがハマる瞬間もある。同じ一杯でもお客さん次第のようです。
踊りは、見る人の想像で完成する
さっき、評価を立てているのは観客の信頼だ、と話しました。では、その信頼を差し出す観客は、ただ黙って受け取っているだけなのでしょうか。違います。観客は、もっと忙しく動いています。私だって、さんざんその観客に穴を埋めてもらってきた側です。特にジャッジさせてもらったときにその穴埋めをより濃く感じました。
バトルでジャッジを任されることもあれば、ただの客として誰かの踊りを眺めることもあります。とくに、自分にも馴染みの薄い曲、A-POPのような場でジャッジ席に座ると、妙だなと思う瞬間があるんです。確かな物差しがないぶん、つい技術や真新しさを頼りに見る。すると、技術だけ取り出せば明らかに格上の相手がいても、なぜか「この場に一番ふさわしいのは、こっちだ」と感じて、心が勝手にそっちへ傾くんです。
誰に聞いても「あの人がいちばん上手い」と返ってくる、文句なしのAさんという人がいるのですが、この前ジャッジをしたときに、その人の踊りが、その日その場で流れた曲にどうしてもハマって見えませんでした。技術は、どう見てもその人が上。なのに、対戦相手の方が、技術ではまだ及ばないのに、いまの音楽にぐっと寄り添って見えた。気づいたら、私の手は、相手の方へ挙がっていました。Aさんを負かしたくて負かしたわけではありません。ただ、その瞬間その場にいちばん寄り添っていた踊りを選んだだけなんです。
最初は、勢いに飲まれただけかと思っていました。でも、違うんです。その瞬間、私の目は技術の粗さを、決定的なマイナスとしては見ていない。確かな物差しを失ったぶんを、「こいつはよりよく音楽を聴いている!」と勝手に読み替えて、埋めている。私の想像が、粗い踊りを一枚の絵に仕上げてしまう。私はその人の踊りの、共同制作者になっていたんです。
ただ、その「ふさわしさ」を、踊り手が一人で用意することはできません。ワンムーブの数十秒で、相手の全部が見えるわけがない。足りないぶんは、想像で補われます。あの人がふだんどんな空気でシーンに立っているか、その「人となり」まで重ねて、踊りを読んでしまう。誰と当たるか、どの曲か、その場の温度など、そういう文脈の全部が想像のしかたを決めるんです。だから踊りの完成は、踊り手が一人で握りきれるものじゃない。隅々まで描き切った踊りより、少し余白のある踊りの方が、見る人の想像が入り込む隙間があります。
いつだったか「伝えるより、共に作り上げる」という言葉に出会って、妙に腑に落ちました。表現は、完成品を突きつけるものじゃなく、受け取る側と一緒にその場で立ち上げるものなんだ、と。
ここまで来て、ようやく着地します。
「自分らしく踊れ」「個性を出せ」と、最近はやたら言われます。その圧に追われると、苦しくなります。もっと上手くならなきゃ、技術を足し続けて評価されなきゃ、と。ここまでずっとつきまとってきた、あの評価のループです。挙げ句、自分一人で隅から隅まで作り込んでからじゃないと出せないと気負ってしまう。
でも、踊りは観客の想像で完成します。評価の最後のひと筆は、いつも見ている誰かが入れる。だったら、それを自分一人で技術だけで完璧に仕上げ切ろうとしなくていいんです。
代わりに握りたいのは、自分の芯の方です。「評価は人に委ねろ、でも芯は手放すな」です。逆に聞こえて、実は別の話です。「出来上がりの評価」は、客席と一緒にしか立ち上がらない。そこは委ねていい。でも、その場に何を持っていくかは、最後まで自分で選べる。他人の物差しに合わせて技を盛るより、自分が面白いと信じる中身を出す。握るのは結果じゃなくて行動なんです。
さっき私が、馴染みのない曲の前で誰かの粗い踊りを一枚の絵に仕上げたように、あなたの余白も、客席の誰かが埋めてくれます。全部を自分で背負い込まなくて、いいんです。
踊りは、一人じゃ完成しないんですから。
まとめ
改めて、本日のまとめです。
- 評価は、動きそのものじゃなく、見る側が「何を信じて、足りないところをどう補うか」で決まる
- だから動きを一ミリも変えなくても、観客の信頼が積まれれば、評価は化ける
- そして踊りは、観客が想像で余白を埋めて、はじめて完成する=共同制作
冒頭で、ほんの60秒や数分で正しい評価なんて下せない、と書きました。今もそう思っています。でも、その先に救いもありました。短い時間で正しく測れないなら、評価は見る人の信頼と想像に委ねられる、ということでもあるからです。だから、上手くなることばかり考えなくていい。足し算の外側にも、ちゃんと回路はありました。信じてもらえるだけのものを、差し出すこと。余白を、見る人に委ねること。そして、何を持っていくかは、自分で選ぶこと。
「で、結局どう踊ればいいの?」と思った方、安心してください。私もまだ、毎回うまく余白を残せているわけじゃありません。それでも、あなたが一人で完璧に仕上げなくても、残りは見ている誰かが補ってくれます。そう思うだけで、少し肩の力が抜けるんです。
踊りは、一人じゃ完成しない。
最後までご精読いただきありがとうございました!
