実力は関係ない | 超偏見ダンスシーン構造分析

こんにちは、とーやです。

私たちはなんのためにダンスをしているのでしょうか(唐突)。

「楽しいから」「結果を残したいから」など、皆さんの中にもそれぞれの目的があると思います。

でも、その目的意識って本当に自分で決めたものでしょうか?楽しいと思わせる”なにか”。結果を残したいと思わせる”なにか”。その”なにか”って、実はダンスシーンの構造そのものが作り出してるんじゃないかと考えています。「ダンスに勝ち負けはない」「比べるものじゃない」。本当にそう思ってるなら、なんでバトルに出るんでしょう?なんでせっせとSNSに自分の踊りを投稿しているんでしょう?

今回は、ダンスシーンの構造を「資本主義」「民主主義」「社会主義」という切り口で分析してみます。小難しく聞こえるかもしれませんが、要は「なぜ勝てる人と勝てない人が生まれるのか」を、シーンの仕組みから考えるという話です。

ダンスシーンが明らかに人目につくようになった。結果や閲覧数を求めるダンサーが増えた。この変化が、ダンスシーンの構造そのものを変えてしまった。

今日はそんな話をしていきます。


目次

ダンスシーンは資本主義構造である

語弊を恐れずに言いましょう。

バトルやコンテストの勝ちやすさは、実績、フォロワー数、人脈などの周囲からの認知度で左右されます。

のっけから夢も希望もないことを言うようですが、私たちが夢見ている「平等に評価される」世界は、現在のダンスシーンには存在しません。これは私のような結果を出せずにいる人間のぼやきではなく、ダンスシーンの資本主義構造がそうさせているという明確な原因に基づいた事象なのです。この事象の根本原因は、現代の「”踊り”が貨幣価値を持っている」ことにあります。

“踊り”が貨幣価値を持つまで

「”踊り”が貨幣価値を持っている」とは、一体どういう意味でしょうか。若輩者ながら、私の観点でストリートダンスシーンの成り立ちを大雑把な例え話で振り返ってみましょう。

そもそもストリートダンスにダンスバトルやコンテストという文化は存在しませんでした。路上やクラブで誰にでも共有された音楽で、誰にでも共有された場所で、着の身着のまま各々が好きなようにダンスを楽しんでいました。

そんな状況から、いつしか踊りに対して優劣をつけるようになります。「俺はあいつよりダンスが上手い!」とか、「あいつのダンスはイケてない!」など、同じコンテンツに取り組む者同士で比較をはじめるわけです。実際には口に出さなかったとしても、周りからの評価は実に残酷なもので、AとBを比較して自然と優劣をつけるようになります。

優劣をつけるということは、そこには”上手なダンサー”と”下手なダンサー”が出現するようになります。”上手なダンサー”は技術があるわけですから、周囲からダンスを見たいという需要が高まります。その需要を満たすために、色々な場所で”上手なダンサー”をゲストで招待してお客さんを集めるようになります。お客さんが集まるということは、”上手なダンサー”にそれだけお金を払うことになります。

お金をかけるだけの価値がある”上手なダンサー”が、バトルやコンテストなどの競争の場に出てくれば、そういった実績が「魅力」として担保されるようになります。その「魅力」が競争の場で優劣の”優”となる傾向が強くなっていきます。そうすると”上手なダンサー”の知名度がよりいっそう上昇していき、よりいっそうゲストとして招かれて…といった具合に、上手なダンサーの極上無限ループが繰り返されていきます。

“踊り”が貨幣価値を持つまでのフロー

この無限ループを繰り返しているうちに、原初では”踊り”そのものに優劣をつけていたはずが、優劣を誰が見ても区別しやすいように、途中から金額で”踊り”の価値を計算するようになります。これが「”踊り”が貨幣価値を持っている」状態です。悲しいことに、ここまでの話で”下手なダンサー”は何回出てきたでしょうか?

これはひとつの例えであり、今のダンスシーンがこれほどシンプルに形成されたと断言する意図はありません。名のあるダンサーがルーキーに敗北して、たたき上げでのし上がるケースも存在します。ですが、原則としては名のあるダンサーが自動的に優先されるシーンであり、傾向として否定できないものであると言えるのではないでしょうか。バトルやコンテストの上位に上がる面々は固定化されており、昨日今日でこの結果が大きく変わることはないはずです。

断っておくと、この状況そのものは決して否定的な意見として提示しているわけではありません。金額という価値基準をもとに優劣を評価するようになったダンスシーンの現在は、日本の「資本主義」社会においては”健全”な成長を遂げていると評価できるのではないでしょうか。ゆえに、現在のダンスシーンは「資本主義構造」によって成り立っています。

資本主義とは

この「資本主義」という言葉は、そもそもどういう意味なのでしょうか。

資本主義とは、個人が生産手段(土地、資金、機械など)を所有し、利潤を追求するために労働者を雇い、自由競争を行う経済システム。主な特徴は私有財産制、利潤獲得目的の生産活動、および市場経済。

眠くなる説明ですね。起きてください。

現在のダンスシーンで「資本主義」の定義に当てはめて見ていきましょう。ダンサーの資本というのは、身体能力や技術、音楽知識などの極めて個人的な能力から出発して、自由競争の場で実績やフォロワー数などといった利潤を獲得します。この利潤は他の人に奪われることのない私有財産であり、この利潤の一部を資本として転換させて、さらに実績とフォロワー数を増大させます。

消費者(レッスン生、ナンバー生、ジャッジ)は資本を蓄えたダンサーを信頼して消費活動を行い、ダンサーがより資本を蓄積させます。先述した極上無限ループの例も、まさに資本主義をかたどっていると解釈できます。

ただ頑張ってもノーチャンな理由

「だからこそ頑張って下積みして現場に参加しまくってチャンスを掴むんだ!」と威勢の良いあなたは、まだ夢の中にいます。起きてください。資本主義構造においてはただ頑張ってもノーチャンだと思ってください。ただ頑張ることがいかにノーチャンなのかをダンスとは離れた別の例で見ていきましょう。

皆さんが毎日連絡手段で使っているLINEがありますね。なぜLINEを使ってるのでしょう?出会い厨御用達のカカオトークでもいいじゃないですか。エロがり目的のSkypeでもいいじゃないですか。なんでLINEなんですか?

皆さんがLINEを使ってる理由は、「みんなが使っているから」という実績とフォロワー数があるからです。今の社会やコミュニティがLINEじゃないと連絡できないシステムになっているからこそ、LINEを使わざるをえない状況になっています。今からカカオトークとSkypeがどんなに頑張っても日常使いの連絡手段になる未来は予測がつきづらいのではないでしょうか。浮気バレを防ぐために使うのがせいぜいといったところでしょうか。

無名の天才が認められない理由

みなさんの周りのダンサーさんの中には、「この人は天才だ!」という人でバトルやコンテストではそこまで実績を残せていない人はいませんか?とびぬけた技術や音楽性を有しており、周囲から魅力的に映っているはずなのに競争の場では予選すら通過できないといった状況に陥っている人です。周囲としてはもどかしさすら感じるこういうダンサーは、良い言い方をすれば「無名の天才」でしょう。私自身、「なんでこの人が?」と思いながら予選落ちした日は何度もあります。

この「無名の天才」が認められないのは、ジャッジの見方が悪いというわけではなく、ずばり無名であることが原因です。評価する人は無意識のうちにその人の名前や関係値で技術や音楽性そのものを判断する傾向にあり、あえて知らない人を評価することは判断が複雑になるため可能な限り避ける傾向にあります。

逆に言ってしまえば、評価する人と一定の関係を築いていれば、多少の欠点があっても評価されるのがダンスシーン、いや、人間社会と言っても良いのです。人間の本能としてこういった偏りを避けることができません。私だってプレイヤーとしてその恩恵に預かったことがあるのを否定はしませんし、私だってジャッジとして無意識にそういったバイアスを持って判断を下していたに違いありません。「そんなことない!」「ダンスはそのときの技術と音楽で公平に見られてるんだ!」とは言わせません。そんなこと言うなら今日からあなたはカカオトークを使ってください(強制)。

勝者総取りの不可逆性

こうした、名のある”上手な(?)ダンサー”たちによる「勝者総取り」の資本主義的構造は不可逆性(元に戻せない)を有しています。一度この構造にコミュニティが順応してしまうと、今からみんなで仲良しこよしでお金のかからない誰もが勝者になるシーンにしましょうというのは不可能なのです。


民主主義が機能しない理由

資本主義構造化が完了してしまった今のダンスシーンにおいて、勝者総取りのシーンを変える方法はあるのでしょうか?

考え方の一つに「民主主義」があります。資本主義を脱して民主主義的構造をダンスシーンに適用することは可能なのでしょうか?

民主主義とは

「民主主義」の定義についても確認してみましょう。

民主主義とは、国民が政治のあり方を最終的に決定する統治制度。国民が直接または選挙で選ばれた代表者を通じて、社会の決定に参加する制度。国民一人ひとりの自由や平等といった「基本的人権」が尊重される。

学校の社会の時間を思い出しますね。簡単に言ってしまえば、「みんなで決めよう!」「一人ひとりが平等なんだよ!」というのが「民主主義」です。

ダンスシーンにおける民主主義

現在の日本のダンスシーンを見てみると、確かにダンスはどんな人でもやっていいですよね。さらにいえば、ダンスそのものの表現についても平等に評価される傾向にあります(勝敗を考えなかった場合に限りますが)。例えば、フロアが得意な人はフロア主体でロックダンスを構成しても良さが認められるし、フロアが苦手な人は全くやらなくても良さが認められます。極端な話、ロックのシルエットなんて千差万別で、「あなたらしくて良いね!」って言ってもらえる状態はとんでもなく平等であると言えるでしょう。昨今の多様性文化というのも民主主義からの大きなプレゼントです。これは決して当たり前ではありません。どこかの国では一定の音楽や表現については法で禁止されていたりもするわけですから、実は日本のようなダンスシーンというのは稀なのかもしれません。

「民主主義」におけるダンサー主体とその平等という価値観があるおかげで、ダンサー一人ひとりがダンスシーンのあり方を決めているのです。また、こうした民主主義の価値観があるからこそ、資本主義の自由な競争が許されているという側面もあります。バトルに出る人は特別な資格を持っていなくてもいいですし、収入による制限があるわけでもありません。なんのとりえもない落ちこぼれがバトルで優勝して一躍脚光を浴びるなんてことが幾度となく起こっています。先述の資本主義は民主主義という前提がなければ生まれることはなかったのです。

とまぁ、民主主義の果たしている役割というのはとてつもなく大きいのです。これがなかったら私を含めた多くの人はダンスにここまで傾倒していなかったことでしょう。誰もが「平等の権利を持って社会に参加する」というのは非常に甘美な響きなのです。

民主主義と資本主義の葛藤

では、実際の競争の場での成果は平等なのでしょうか。

先述のとおり、ダンスバトルやコンテストは資本主義がダンスというコンテンツを使って営まれる貨幣の移動に他なりません。であれば、成果は当然平等ではありません。競争の場では、実績やフォロワー数がその人が掲げている”看板(≒プロップス)”をより魅力的なものにしていきます。バイアス特盛状態で”看板”を見ることであたかも平等な評価を下したと錯覚する集団が現れることとなり、平等とは程遠い世界が生まれます。ジャッジや観客のみならず、SNSのアルゴリズムですら人気者に視聴者を集中させます。ダンサー一人ひとりが平等であるとはいえ、資本主義が支配的にシーンに関わっていることで成果は特定のダンサーに集中します。

民主主義を根底に置いて資本主義で豊かになろうという本来の発想はとっくの昔に破綻していました。民主主義という良心で資本主義という本能をコントロールするのは不可能と言ってもいいでしょう。反抗期の息子に手を焼く父親さながらの葛藤がそこにはあります。

仮に民主主義的なシーンが実現したら

仮に天地がひっくり返って資本主義が消滅し、民主主義的ダンスシーンが生まれたとしましょう。

民主主義的な競争の場を想像してみると、例えば、バトルの優勝は必ず交代制で3年に1回は優勝させてもらえます。大きなコンテストの出場機会も必ず1回は保証されています。エントリー費は無料で、ジャッジはノーギャラです。DJという不確かさを演出する人は存在せず、みんなで持ち寄った曲を順番に流して公平性を担保します。MCは特定の誰かを持ち上げるようなことがないように、中立な立場でAIが代替します。オーガナイザーは先祖代々受け継いできた私有地でイベントを開催してコストを可能な限り減らしましょう。なんなら、みんなで交代してジャッジとオーガナイザーをやっていくようなシーンが民主主義的な競争であるとしましょう。

極端な例にはなりますがいかがでしょう。皆さんはこのようなシーンに情熱を注げるでしょうか?どうせ勝てるならダンスの練習や情報収集をしますか?負けが確定している期間中にバトルやコンテストに挑戦しますか?本当に他者の踊りに心からいいねボタンを押せますか?私ならできません。

自分のやってきたことが否定されるかもしれない。頑張ってきたのに負けるかもしれない。理不尽な状況に立たされるかもしれない。その不確かさが強いリスクの中で踊るからこそ良いモノが生まれ、その良いモノの周りに人が集まってシーンが形成されていくのではないでしょうか。平等は成長を殺すことになるのです。

完全無欠の平等なシーンを作っていこうだなんておこがましい話なんです。今後、「平等」という言葉を使っていいのは平等院鳳凰堂だけだと思っておいてください。

不平等がゲームを面白くする

私の大好きなスマブラという格闘ゲームで例えさせていただきます。スマブラにはたくさんのキャラクターが出てきて、それらには明らかな優劣があります。AはBに強くてCには弱いといったような対応関係ではなく、強い奴は徹底的に強く、弱い奴は目も当てられないほど弱いという明確なギャップが存在します。人間社会の縮図のように不平等なゲームなんです。

スマブラがここまで人気を博しているのは、この「不平等さ」も要因の一つであると言われています。全キャラが同じステータスのゲームだった場合、結果はもちろん、それまでのプロセスまでもが単純化されるため、ゲームとしての面白さが消えてしまいます。

強い奴が否定も肯定もされて、たまに弱い奴が大物を食らうからスマブラは面白いんです。そのときの流行りや環境によってもプロセスまるごとに変化が起きるからスマブラは面白いんです。


共有財という考え方

社会主義とは

「資本主義」と「民主主義」を見てきて、それぞれの一長一短をなんとなく感じたことかと思います。ここでは更に展開して「社会主義」についても触れてみようと思います。「社会主義」って聞くとちょっと引いてしまった方もいるかもしれません。「赤い左のアレだな」ってなったことでしょう。私もバチバチに偏見がありました。

「社会主義」の定義をおさらいしてみましょう。

社会主義とは、生産手段(土地、工場など)を社会全体で共有・管理し、経済的な平等を達成しようとする思想、運動、または社会体制。資本主義が生み出す貧富の差に反対して生まれ、能力に応じて働き、労働に応じて分配を受けることを目指す。

「みんなのものはみんなのもの!」「格差をなくして能力の分だけ成果を貰うべき!」というのが、社会主義という解釈で一旦は良さそうですね。ここで注目すべきは、「今ある資源をみんなでバランスよく使って成果を出していこう!」という考え方です。資源や成果が特定の人に集中することを防ぎ、コミュニティの参加者全員が均一に成果を上げることを目標としています。社会主義とは決して恐れられるものではなく、資本主義的な優劣が存在しない構造を実現するという明るい考え方が根底にあります。「じゃあ某国の社会主義が上手くいかなかった理由はなんだったの?」みたいな話は長くなるので今回は割愛させていただきます。

コモン(共有財)という概念

「みんなのものはみんなのもの!」という考え方をコモン(共有財)といいます。これは今ある資源は特定の誰かのものではなく、コミュニティに属するみんなのものであるという考え方です。例えば、河川や山などの天然資源は本来誰のモノでもなく誰でも利用可能でした。のどが渇けば自由に水を汲んでいいし、お腹がすいたら自由に木の実を取ってよかったのです。

今ではこれらの天然資源について、無制限に誰でも取っていって良いわけではなく取得には一定の許可が必要です。これは、自由に資源にアクセスできる状態を野放しにしておくと特定の誰かが総取りする事態に陥ってしまうため、個人の権利や利害関係を調整するために、明確に誰かのモノという線引きを決めたほうが都合が良いのです。

ダンスにおいては、技術、音楽、カルチャーなども、当初は限られた人だけがアクセスできるクローズドなものでした。しかし、インターネットの発達により、これらは今や共有財になっていると感じています。例えば、InstagramやYouTubeを見れば、ダンスの基本的な技術はすんなり手に入るようになりました。MixcloudやSoundCloudでアーティストやDJがイケてる音楽をジャンル別、シーン別で共有してくれています。カルチャーについては、それを知る人がいる現地まで直接聞きに行かなくてはならなかったため馴染みがなかったものですが、インターネット上で誰かが精度よくまとめているおかげで、以前と比べて多くの人に浸透してきたように感じます。

なにがすごいって、これらはほとんど無料で享受できることと、無限に供給されているということです。水や木の実とは違い、情報は枯渇することがないので、誰でも無制限にお金をかけずにアクセスできます。お金をかけずにみんなが手に取って効用を高められるものこそ共有財の定義に当てはまると考えています。

情けは人のためならず

以上のように、現在のダンスシーンにおけるコモンが不特定多数の手によって生み出されています。このように人に情報をシェアすることは、一見してシェアする人の奉仕の心が強く一種のボランティアのようにも感じますが、シェアする人にもメリットがたくさんあると考えています。特に着目すべきメリットをここでは、「環境構築」と「アウトプット責任」と独自に名付けて紹介しましょう。

「環境構築」とは、自身のシェアしたものがコミュニティを作っていくという考え方です。自身の生み出したものをシェアすることで、コミュニティに対して正負の影響を少なからず与えます。影響を与えられた他者は、思考して行動と言動が変化していきます。その変化がコミュニティ全体に伝播していき、環境そのものが変わるようになります。環境が変わることで自身も新たな環境に適応するように更なる成長を遂げるようになります。単純なように見えますが、自身の行動や言動というのは周りに結構見られているし、自分自身は環境から無意識に多くの影響を受けているものなのです。要するにシェアすることで自身の成長につながるということです。

「アウトプット責任」とは、自身がシェアするものに対して一定の責任が伴うため、情報精度を上げようとする行動です。シェアするとは簡単に言いますが、SNSのシェアボタンを押すだけではありません。自身の発信が他者に届くことを意識してクオリティと正確性をより重視するように、適当な投稿は避けるようになります。時間をかけてシェアした投稿を「いいね」という”人類史上最高の報酬”がシェアする側の快楽に直結します。アウトプット責任を果たすことで、情報の確かさや周りからのフィードバックを尊重するようになるため、自動的に向上心が高まるのです。要するにシェアすることで自身の成長につながるということです(2回目)。「今日も練習頑張った!」だけの投稿を量産してる人、聞いてますか?

これらのメリットを知ってか知らないか、名のあるダンサーの多くは他者へのシェアを重要視する傾向にあります。もちろんそこには、向上心やシーンの成長などというご立派なお題目もあったでしょうし、下心もあったでしょう。ですが、事実として無償のシェアが本人と本人の属する環境をステップアップさせていました。

人間の原動力は全くの無からは生まれません。あなたは誰かからの刺激がきっかけでダンスを始めたはずです。また、あなたの存在が誰かへの刺激になっているはずです。相互に原動力を呼び起こすためにも、情報シェアには積極的に取り組んでいただきたいと個人的には考えています。「目先の利益に飛びつくな!」などと言いたいわけではありません。目先の利益は当然追求すべきです。ですが、自分一人でここまでダンスに熱中できるようになったというのは大きな誤解です。使った共有財を共有財として返していくことで共有財の質はよりいっそう高まって自分に跳ね返ってきます。「情けは人の為ならず」とはよく言ったものです。

社会主義の限界

ここまで聞くと「社会主義よさげやん!」と思われることでしょう(私自身少し肩入れしているので)。ですが、当然デメリットも存在します。大きく二つ。

一つ目は、共有財の実現が非常に難しいことです。他人に無償で有益なモノをシェアするというのは、とんでもない労力がかかることです。SNS運用している人ならこれが痛いほどわかるはずです。「SNS運用代行」などという職業が存在しているくらいですから負担がえげつないのです。こんなに労力をかけたものが他人に都合よく持っていかれるならまだしも、下手すりゃ否定のコメントで埋め尽くされるなんてこともあり得ます。そんなことを続けていくというのは気が狂います。いや、むしろ気が狂ってる奴じゃないとできないことです。

また、現代の共有財(ここではSNSに限定する)は、資本主義の動きが後ろで見え隠れしているようにも見えます。アルゴリズムに媚びたアクセス数稼ぎのための表面的な情報が前に出るように設定されているため、本質を突いた伝統的な情報というのは触れづらくなっています。シェアされる方々におかれましては、ぜひ、キャッチーで飛びつきやすい「ダンスの○○3選!」(笑)といったものだけを棚に並べるだけでなく、カルチャーや音楽、歴史などの本質的な情報も陳列していただければと願うばかりです(もちろん、ダンスを日常生活のより近い場所に置いてくれたエンタメ発信に感謝の念もあります)。

二つ目は、社会主義は成長を軽視してしまうことです。「みんなでモノを共有してみんなで目標達成しようね!」という理念は、特定の個人を突き抜けて成長させることはなく、特定の個人の成長に追従する競争相手も生み出しません。「そもそも競争により格差が生まれるのだから競争なんてやめようね!」という毛色が強いのです。先述のとおり、資本主義的構造のダンスシーンの最大の成果が「競争による成長」です。人によって持っているモノに偏りがあったからイノベーションは起きたのです。共有・管理されたモノを使ってノルマをこなし続けるという社会主義の理念は、いわば、イノベーションガン無視の彩りの無い毎日を繰り返すだけなのです。

「成長なんて興味ないよ!」「ただ楽しければそれでいいし!」というマインドで社会主義的発想に同意された方もいらっしゃるかもしれません。ですが、今一度胸に手を当てて考えてみてください。本当に成長に興味がないのならダンスなんてものをやってないのではないですか?初めて触れたあのダンスがきっかけで最初は見るだけだったけど、だんだん自分でもやりたくなってきたのではないですか?やってみて思いませんでしたか?自分があまりにも下手すぎると。自分の理想とはずいぶんかけ離れていると。そのかけ離れた理想と現実のギャップを少しでも埋めるために練習を大なり小なりしてきたはずです。そこには向上心というものが必ずあったはずです。ダンスをされている、あるいはしていた皆さんが成長に興味がないというのは、嘘をついていると私は断言させていただきます。そんなマインドの持ち主たちによって形成されているダンスシーンに対して、社会主義的な成長を軽視する考え方というのはどこかで行き詰まるはずです。


構造を柔軟に受け入れる姿勢

ここまで、「資本主義」、「民主主義」、「社会主義」の3つの考え方をダンスシーンに照らして考えてきました。それぞれには無視できないほど大きな一長一短があります。「で、結局どれを軸とすべきなの?」と迷ってしまいます。

私の結論としては「全部やっちゃえばいい」です。どれかの主義に完全に偏るのではなく、バランスよく良いところどりをしちゃえばいいのです。ここでいう「バランス」というのは「均衡」という意味ではありません。世の中のニーズや情勢に応えて配分を調整するという意味です。どれか一つの主義にずっと立ち続けるのは、社会の変化には対応できません。

具体的な対応策

例えば、特定のダンサーしか成果を残せない状態や、特定の個人・法人が独占的にイベントを開催するような資本主義状態が顕著になれば、民主主義の発想で誰かが新しいイベントを主催して、キャストもこれまでにない異色の面々で固めることで、新たなプロセスと結果が生み出されるのではないでしょうか。イベントキャストが誰でもできるような環境を作ってみても面白いかもしれません。また、社会主義の発想で成果を上げている特定のダンサーが、他ダンサーに情報や技術の共有に積極性を持てば、より多くのダンサーへのキッカケづくりになると思います。逆に「みんな仲良く!人のためを思ってダンスシーンを作ろう!」をあまりにも強制するような、やりすぎ民主主義状態が顕著になれば、資本主義の発想で競争の場を設けて、特定の誰かがリーダーとなって成果を上げ続けていくことで、それに追随する人が現れてシーン内で相互のレベルアップが図れるでしょう。

私が考える最良のバランス

現時点で私が考える最良のバランスは、今ある資本主義をベースに民主主義の平等と社会主義の共有財の意識を強く推し進めることです。言いかえると、貨幣の移動は資本の最大化のためではなく、コミュニティの最大化のために行われるべきだということです。今のダンスシーンが成熟しているのは資本主義的構造による貨幣の移動があったからです。この資本主義をエンジンとして、民主主義と社会主義という両輪でバランスを取って走行するべきです。先の例のように誰かがイベントを企画するところまでは良いのですが、そのイベントにお金を落としてくれる人が少なければ民主主義の存続はできません。技術や情報の共有がずっと無償であれば、いずれは質の低下を招きます。資本主義から逃げずに、貨幣の移動も意識しながら新たなイベント、質の高い共有財を創造していくことが重要になってくると考えています。スタジオ経営や飲食店経営なども、ダンサーの共有の場を作りつつ、資本主義の波にも順応していこうという良い例のように感じられます(社会貢献という信念を持っているものに限る)。そこから得られたものを使って資本主義競争に積極的に参加をしていくべきです。競争により音楽、技術、思考が成熟していくことで更に高次元の競争が発生するといった好循環が生み出されます。

私が考える最良のバランス

個人としてできること

これは何もすべてのダンサーが競争しつつもイベントやスタジオを経営するべきだと言っているわけではありません。個人のできる範囲で結構なので、振り返ってみて自分が一つの考えに傾倒しすぎていないかを判断しましょう。バトルの実績が大事!だとか、シェアすることがダンスの本質だ!とか、ダンスはみんな平等にすべき!だとか自分の信念を一つに定め続けるというのは視野狭窄に陥ります。自身のマインドを軸にどのポジションに自分を定めるかを定期的に見つめなおすこと、それぞれのバランスを調整することで、固有のダンサーが生まれるはずです。固有のダンサー同士がシーンに存在することで、それぞれがシーンでの役割と責任を果たすようになるはずです。私はバトルにも出るし、ブログも書くけど、人のナンバーにはそんなに出ないし、レッスンにはあまり行かない。それでいいのです。考え方をお互いに有して競争とコントロールでより活気のあるシーンにできたら最高じゃないですか?ダンスシーンを大きな生き物だととらえて、一人ひとりが多様な細胞として動くことで、その生き物は成長していくはずです。細胞分化が進めば勝者総取りの悪辣な資本主義にも、頭ハッピーセットな民主主義にも陥らず、誰にでもチャンスが巡るようなシーンが実現できるはずです。


まとめ

長々と書いてきましたが、今回は「資本主義」「民主主義」「社会主義」という3つの視点からダンスシーンの構造を分析しました。

それぞれを整理するとこうなります。

【資本主義】

  • メリット:競争による成長、イノベーション、シーンの成熟
  • デメリット:勝者総取り、無名の天才が埋もれる、構造が固定化する

【民主主義】

  • メリット:誰でも参加できる、表現の自由、多様性の尊重
  • デメリット:結果の平等は成長を殺す、資本主義をコントロールできない

【社会主義】

  • メリット:共有財による知識の拡散、シェアによる相互成長
  • デメリット:共有財の維持が困難、競争を軽視しがち

どれか一つが正解というわけではありません。

資本主義だけでは勝者総取りの世界になる。民主主義だけでは頭ハッピーセットなぬるま湯になる。社会主義だけでは競争のない停滞したシーンになる。

私の考えは、資本主義をベースにしつつ、民主主義と社会主義の良いところを柔軟に取り入れるというものです。

……と言うと、「結局バランスってこと?」と思うかもしれません。

この記事で本当に伝えたかったこと

正直に言います。

この記事を読んでも、明日からバトルで勝てるようにはなりません。

でも、「なぜ自分が勝てないのか」の理由が、実力以外のところにもあると分かる。それだけで、少し楽になりませんか?「自分がダメだから負けた」と思うのと、「構造的に勝ちにくいポジションにいるから負けた」と思うのでは、同じ負けでも受け止め方が変わります。

私が言いたいのは、構造を理解した上で、このゲームに居続けてほしいということです。

理不尽に負けることもある。名前のある人が自動的に上がっていくのを見ることもある。「なんで俺じゃないんだ」と思う夜もある。でも、それはあなたの実力がないからじゃない。ゲームのルールがそうなってるだけです。

構造は変わる。だから居続ける。

もう一つ伝えたいことがあります。

今の構造が永遠に続くわけではありません。

SNSのアルゴリズムが変われば、誰が注目されるかも変わる。新しいイベントが生まれれば、新しい勝ち筋が生まれる。シーンを動かす人が変われば、評価の基準も変わる。

あなたが成果を上げるターンは、いつか必ず来ます。ただし、そのターンが来たときにシーンにいなければ意味がない。だから、今は構造を理解して、自分なりのポジションを取って、このゲームに居続けてください。腐らず、焦らず、でも降りずに、一緒にゆるく居続けませんか?

最後までご精読いただきありがとうございました!

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